スポーツナビ 2018年9月19日
タイと日本のろう学校の“橋渡し役”に
相原豊がサッカースクールで叶えたい夢
“静かに”ボールを蹴るサッカー少年たち
1年前の夏、昔の仲間から連絡があった。
「タイに来ない?」
特段の予定もなかったので「いいね」と即答し、
ほとんど夏休み気分で飛行機に乗った。
目的地であるシラチャの町まで、バンコク・ドンムアン空港から
タクシーを飛ばすこと約1時間半。
町のフットサル場に到着すると、そこでは
たくさんの子どもたちが“静かに”ボールを蹴っていた。
タイ、バングラデシュ、ウガンダでプロ選手としてプレーした異色の経歴を持つ相原豊【細江克弥】
その中心に、相原豊(あいはら・ゆたか)はいた。
いまから25年ほど前のこと。中学時代のチームメートである彼は、
神奈川県下ではそこそこ名の知れたサッカー少年だった。
理由は2つある。
まずは、単純にサッカーがうまかったこと。左利きの左ウイングだったユタカは、
足裏を使った引き技やダブルタッチを得意とするドリブラーだった。
カラーコーンを並べたドリブル練習は誰よりも速く、パスを受ければ
敵の間を縫うようにして、すいすいとボールを運んだ。
もうひとつの理由は、先天性の左手部欠損というハンディキャップを抱えていること。
わかりやすく言えば、左手首から先がない。
「サッカーがうまいこと」と「左手がないこと」に直接的な因果関係がないことは、
大人になれば誰でも分かる。
そもそもサッカーは手を使わないし、ユタカの場合は「手」がないだけで、
体も心も健康そのものだ。
ただ、子どもの場合はそう簡単じゃない。
左手がない“のに”、サッカーがうまい――。自分だけでなく、
同じ地域で育ったサッカー少年のほとんどが、そんな見方をしていたに違いない。
何しろ、身体的なハンディキャップを抱える友達はユタカが初めてだった。
あれから四半世紀以上もの歳月が流れた今、移り住んだタイで
「Yutaka Football Academy」を開いたユタカは、現地の子どもたちにサッカーを教えている。
シラチャのフットサル場にいた“静かな”サッカー少年たちは、
地元のろう学校に通う耳の聞こえない子どもたちだ。
“プロサッカー選手”として3カ国でプレー
自身もハンディキャップを持つ相原豊は、タイで耳が聞こえない子どもたちに
サッカーを教えている 【細江克弥】
この記事で紹介したいのは、サッカーの指導者として、海外で障害を持った
子どもたちとボールを蹴るユタカの活動についてである。
ただ、その前にもう少し、彼がいったい何者であるかを説明したい。
1979年に神奈川県藤沢市で生まれた彼は、高校卒業後、神奈川県の社会人1部リーグで
プレーした。プロになる実力はなかったが、どうしてもプロになりたかった。
だから「JリーグのすべてのクラブとJリーグを目指すすべてのクラブ」に
直接電話をかけ、自らを売り込んだという。
もちろん、まともに取り合ってくれたクラブは1つもない。しかし、そんな活動の中で
出会った人がサッカースクールを運営していると聞き、自分もその道に進みたいと
考えるようになった。
「でも、なんの実績もない単なる“サッカー好き”がサッカースクールを開いたところで、
誰も来てくれないと思ったんだ。当時はまだ少なかったけれど、いずれ、引退したJリーガーが
こぞってサッカースクールを開く。そんなところに勝てるわけがないから、
せめて自分も“元プロ選手”という肩書きを持たなきゃいけないと考えたんだ」
日本でプロになれないなら、別の国でプロになればいい。 異常なまでの行動力は、
子どもの頃から変わらない。たまたま知り合ったラオス人を頼ってタイに向かい、
草サッカーで作った仲間のツテをたどってプロクラブのテストを受けた。
そこでたまたま決めたゴールが評価されて“タイリーグ史上2人目の日本人選手”となり、
1年間プレーした。
しかし、リーグ戦ではたいした結果を残すこともできず、契約は1年で終了した。
今度は「日本人選手が行ったことのない国」を目指してバングラデシュへ飛び、
サッカー協会に直談判してプロクラブのテストを受けた。
結果は合格。無茶をする性格のせいで身の危険に遭遇することもあったが、
メンタル的な“ゾーン”に突入してしまった彼は、「もっとパンチのある国に行ってみたい」と
アフリカ大陸をターゲットとした。
バングラデシュのチームでは、同じ“外国籍選手”として2人のウガンダ人と一緒にプレーした。
彼らが「いい国だ」と自慢げに言うものだから、目的地をウガンダに定めた。
ここでも青年海外協力隊として現地に派遣されていた日本人スタッフの世話になり、
知り合った校長先生の口利きでプロクラブのテストを受けることになる。
「本当にたまたま、バングラデシュ時代のウガンダ人選手から電話がかかってきて、
テストを受けようとしていたクラブのコーチが彼の親友だということがわかった。
で、見事に合格。5試合くらい出場したかな。給料は1年で3万円くらい。
サトウキビで支払われたこともあったっけ(笑)」
タイでは「ナカタ」、ウガンダでは「パク・チソン」と呼ばれたユタカは、
そうして計3カ国でプロのサッカー選手になった。
2006年には日本に戻り、3年間、横浜のとあるスクールでコーチを務めた。
「選手ではなく、“サッカー小僧”を育てたい」
スクールにゲスト参加したタイでプレーする選手を“手話の拍手”で迎える子どもたち
【細江克弥】
かくして元プロ選手の肩書きと指導経験を手に入れ、準備は整った。
無茶ばかりしてきた彼にしては珍しく“未来”を現実的に考え、
その結果として選んだ新天地がタイだった。
「最初は日本でろう学校に通う子どもたちを対象にしたサッカースクールを開こうと思った。
ただ、そういう学校に話を持って行っても、なかなか取り合ってくれない。
やっぱり、まずは“結果”を出さなきゃいけない。現実的な話、タイには日本の企業が
いっぱいあるし、日本人の子どももたくさんいる。いずれスポンサーになってくれる
企業もあるかもしれないと思ったから、タイを選んだ」
移り住んだシラチャは、世界でも有数の日本人街として知られている。
資金は100万円。グラウンドを見つけ、送迎バスを借り、運転手を雇って
「Yutaka Football Academy」はスタートした。
最初のスクール生は、たった3人しかいなかった。 それでも、地道に続けること10年。
3人が15人になり、リーマンショックの余波が薄れるとさらに倍増し、
日本人の子どもたち、タイの子どもたち、孤児院の子どもたち、ろう学校の
子どもたちを合わせて、スクール生は100人を超えた。
同級生の自分に言わせれば、“あのユタカ”がいまや立派な経営者である。
スクールの指導方針は、いかにも彼らしい。
「大きく言えば、何にもないんだよね。サッカーが好きになってほしいだけで、
今、俺と一緒に過ごしている時間が、彼らにとって一番楽しい時間であってほしい。
そこにサッカーがあって、仲間がいる。だから、選手を育てようというつもりはあまりなくて、
あえて言うなら“サッカー小僧”を育てたい。ちゃんと人間くさい子どもと言うのかな。
だから、サッカー指導者というより教育者。偉そうだけど、そっちの意識のほうが強い。
それが持論だから、いかにも“練習っぽい練習”は一切やらない。ゲーム形式ばかり。
サッカーは誰かに教わって伸びるものじゃないと思っているし、自分の経験上、
技術や戦術よりも戦うことが大事。頭でっかちな指導者にはなりたくないから、
俺がうるさく言っているのは『挨拶(あいさつ)だけはちゃんとやれ』ということだけ。
それに対しては本気で怒るよ。せっかくサッカーをやっているのに、人として
成長しないんじゃ意味がなくなっちゃうから。子どもを預かっている身として、
その責任だけは果たしたい 」
これからの目標も、子どもたちに伝えたいことも明確だ。
「子どもたちに偉そうなことを言うばかりじゃなく、ちゃんと見せなきゃいけないと
思うんだよね。俺も頑張ってるぞって。だから、何でもいいからサッカーで一番になりたい。
障害者である自分が一番になろうと思ったら、障害者と一緒に何かを作っていくことだと思う。
誤解を恐れずに言えば、健常者が障害者に向けて『前向きに頑張ろう』と言うより、
障害者が言ったほうが説得力がある。
『オレにも障害があるけど、それでもプロになれたんだ!』って」
思い浮かべた第一歩は、タイのろう学校と日本のろう学校を結ぶ橋渡し役になること。
両国の子どもたちが交流するイベントを14年にスタートし、
1年目はタイの子どもたちを連れて日本を訪れた。
以降、このイベントはタイと日本で交互に開催され、18年に第5回を迎えた。
工夫してコミュニケーションを図る子どもたち
障害者と健常者の子どもたちは、大人が何か伝えなくても、
工夫してコミュニケーションを図ろうとする 【細江克弥】
紆余(うよ)曲折は、もちろんあった。
タイのろう学校の子どもたちを日本に連れて行った第1回は、予算の工面と
受け入れ先の手配に苦労し、第2回はタイで開催したものの、
日本のろう学校から来た子どもは5人しかいなかった。
スポンサー獲得のためにタイの日本法人に飛び込み営業をかけ、
「笑いで押し切るプレゼン」を繰り返した。
日本の学校関係者や親御さんには活動の意義を説明し、地道なアピールを続けた。
その結果、16年の日本開催ではFC東京の協力を得てイベントの開催に成功し、
17年のタイ開催では12社ものスポンサーが集まり、日本だけでなく、
ミャンマーのろう学校も招待することができた。
そして今年、通算3度目となる日本遠征では、FC東京に加えて
ジェフユナイテッド千葉でもイベントを開催した。
「ガリガリ君」でおなじみの赤城乳業など複数企業が相原のスクールを支援している
【細江克弥】
自分は17年にタイで、今年はフクダ電子スクエアでこのイベントを見た。
健常者と耳の聞こえない障害者、タイ人と日本人、それからミャンマー人の
子どもが入り混じってボールを蹴る光景は、“最初だけ”なんとも不思議に感じられる。
健常者の子どもが「ヘイ!」とパスを要求しても、
ろう学校の子どもたちには聞こえない。
すると子どもたちは、大人が何かを伝えなくても、勝手に工夫しようとする。
例えば、ちょっとオーバーなアイコンタクトとジェスチャーでコミュニケーションを成立させる。
外から見ると“静か”だが、中に入ってみると子どもたちは子どもたちらしく、やはり賑やかだ。
「回数を重ねると、タイから日本に2回行った子、日本からタイに2回来た子が出てくる。
そうなると、明らかに変わるよね。次元の違うコミュニケーションになる。
初めてFC東京に行った年、日本の子どもたちの親御さんが
このイベントの意味をすごく感じてくれて、それがうれしかった。
資金集めも手配も引率も大変だけれど、やる意味はあるのかなって」
本当の意味で「サッカーを文化にする」ために
「障害を諦める理由にしてほしくない」と相原。子どもの頃から変わらない
そのバイタリティーは加速するばかりだ 【細江克弥】
自分にしかできないことがある。自分にしか伝えられないことがある。
「やっぱり、障害を諦める理由にしてほしくないよね。
『障害がある私を認めてください』じゃなくて、認めさせるくらいの自分に
ならなきゃいけないと思うから。かわいそうな障害者、頑張ってる障害者じゃなくて、
すごいなと思ってもらえる人になってほしい。サッカーは、何かが足りなくてもできるでしょ。
俺なんて、左手だけじゃなく右足も“オモチャ”みたいなものだから(笑)」
子どもの頃から変わらないバイタリティーは、加速するばかりだ。
イベントの規模をさらに拡大し、いつか、ろう学校のアジアカップを開催したい。
その一方で、現在は健常者と障害者が選手として混在するプロフットサルクラブの
創設に動いており、来年からのトップリーグ参戦に向けて、着々と準備が進んでいる。
「夢を諦めるな」と口にするだけでなく、実際に障害者がプロになれる道筋を作りたい。
加えて、来年40歳になる自分も“選手”として現役復帰しようとたくらんでいるというから、
旧知の間柄としては「相変わらずバカだな」と言いたくなる。
「だって、まだまだ俺も目立ちたいんだもん(笑)」
日本サッカーが世界と肩を並べるための必要条件として、
よく「サッカーを文化にする」ことの重要性が説かれる。
本当の意味でサッカーを文化にするためには、より多くの選手が世界のトップリーグで
活躍し、子どもたちに夢を持ってもらうことも必要だろう。
Jリーグのクラブがアジアや世界の舞台で勝つことも、大きな刺激になるかもしれない。
でも、たぶん、それだけでは足りない。サッカーがうまくてもヘタでも、
プロでもアマチュアでも、健常者でも障害者でも、日本でも海外でも、
ユタカのように好きなサッカーと真剣に向き合い、
「自分に何ができるか」を考えて行動に移している
日本人サッカーバカ(リスペクトを込めて)は意外と多く存在する。
その動きを見逃すことなく、彼らが起こすムーブメントに積極的に参加し、
応援し、動きを拡大しようとすることは、
サッカーを日本の文化にするためにとても重要なことであると思う。
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