artscape 2018年08月01日号
その触覚は誰のものか
田中みゆき(キュレーター)
人間の体や知覚を再定義しようとする動きがあらゆる表現領域で見られるようになった。
知覚のなかでも共有が難しいと思われてきた触覚すら
テクノロジーの進化に伴い記録・再現可能なものになりつつある。
しかし、技術的には可能だとしても、その伝え方や体験方法については
まだまだ検討すべき点が多くあるように思う。
視聴覚のようにメディアを通した共有が容易なものとは性質が異なる触覚に対して
わたしたちはどう共感を覚えることができるのだろうか。
触感を伴う言語としての手話
手話を習い始めて2年半が経つ。わたしの通う手話教室は
ろう者の先生のもと90分の間、無言で行なわれる。
その日のテーマなどを最初に告げられるわけではない。
わたしができることと言えば、目を凝らして先生の手や腕の動き
表情から繰り広げられる質問を読み取り、自分の答えをどう
伝えられるか試行錯誤することくらいだ。
ひたすらその繰り返し。何と言っても手話の魅力は
単に音声言語を身振り手振りで変換したものではなく
独自の豊かな言語文化を構築していることだ。
例えば、私の好きな手話に「はじめて」と「終わり」がある。
「はじめて」の手話
協力:和田夏実
「終わり」の手話
協力:和田夏実
「はじめて」は何もない状態から「1」が立ち上がるイメージを想起させ
「終わり」は物事が収束していく様子をありありと感じさせる。
わたしにとってそれらの表現は、それぞれの単語以上のナラティブを纏い、
池に小石を落とした時に広がる波紋のようにじんわりと
しかし確かな手触りを心に残す。
それは、相手の動作を視覚で確認し、その意味を脳で解釈し
意味から考えた応答を自らの体を通して身体表現に変換するという複雑な作業が
ネイティブではないわたしにとってはまだまだゲームのように
意識的にひとつずつこなしていかなければいけないものだからというのもあるだろう。
こう言うと母国語を第二言語に翻訳する作業に似て聞こえるかもしれないが
手話の場合はそこに身体が関わる。手話も他の言語同様に独自の記号体系を持つが
体を通すことで人によるブレや誤差が生じ、それがその人の手触りとなって表れるようにも感じる。
手話は視覚言語でありながら、視覚から伝わる触感が意味や情景を伴う言語なのだ。
テクノロジーがつくり出すさまざまな触覚体験
ここ数年で触覚に訴える展示やイベントを見かけることが増えている。
それらのなかには、聴覚障害者を軸に据えた取り組みもあれば
テクノロジーの分野においてこれまで未開拓だった
触覚を新たな研究/表現領域として捉える試みもある。
前者の主な例としては、音のない世界で言葉の壁を超えた対話を楽しむ
「ダイアログ・イン・サイレンス」や
真鍋大度+石橋素+照岡正樹+堤修一×SOUL FAMILYによる電気刺激デバイスを用いた
パフォーマンス『Music for the Deaf』★1などが挙げられる。
落合陽一x日本フィルによる聴覚障害者とオーケストラの演奏を楽しむ
『耳で聴かない音楽会』は、両者にまたがる活動といえる。
左:OntennaとSOUND HUGを身につけ演奏に聞き入る聴覚障害のある観客
右:ORCHESTRA JACKETを着て指揮者体験
[撮影:山口敦 提供:日本フィルハーモニー交響楽団]
髪の毛に装着し振動と光で音を伝えるデバイス「Ontenna」や
両手で抱えることで音の速さやリズムを振動で感じられる球体デバイス
「SOUND HUG」などが聴覚障害者のために用意され、行なわれた。
それだけでなく、音楽のイメージを助けるビジュアルとともに演奏を行なったり
聴覚障害者が観客としてだけでなく「ORCHESTRA JACKET」という
数十の超小型スピーカーを搭載した“音を着る”ジャケットを着て指揮する側に回るなど
聴覚情報を触覚あるいは視覚で補完するさまざまな試みが見られた。
渡邊淳司+川口ゆい+坂倉杏介+安藤英由樹「心臓ピクニック」
とりわけ、曲目のひとつとしてジョン・ケージの『4分33秒』が演奏され
聴覚の有無関係なくその場にいる全員が、舞台上で楽器を構えるが
何も演奏しない演奏者とただめくられていく譜面を
息を飲んで見つめる場面は秀逸だったと思う。
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