知らぬまま病院でいきなり断種 「仕方ない」諦めの手話に思い

京都新聞
2019年03月08日


 ロビーの机の上に少女の人形が4体。

ドレスやアクセサリー、髪飾り、帽子でおめかしをし、

西洋のお嬢様のようだ。

「かわいいでしょ。私が作ったの」。


 兵庫県の淡路島にある特別養護老人ホームで、入居者の勝楽佐代子さん(89)

がにこやかに笑った。 

人形を前に手話で語る勝楽さん(右)と大矢さん=2018年12月28日、兵庫県洲本市・特別養護老人ホーム淡路ふくろうの郷


 勝楽さんは舞鶴市で生まれた。

幼いころから耳が聞こえず京都府立聾(ろう)学校に入学したが、

小学部を卒業する直前に「空襲がきたら危ない」との理由で学校は休校となった。


 舞鶴に戻り、28歳の時までじゅうたんに花の絵を刺しゅうする

仕事に就き、裁縫の腕を磨いた。


 ■老人ホームに50体の人形並べ

 1960年、広島市で開かれた全国ろうあ者大会で、

ろう者で同い年の進さんと知り合った。

「私の方が好きになった。健康そうでいい人だなと思って」。

当時30歳。

会場で住所を交換し、文通で愛を育んだ。 

勝楽佐代子さん(右)と4年前に亡くなった夫の進さん夫妻


 縁談がまとまると、母親に何も知らされないまま婦人科へ連れて行かれた。

診察室で医師から「あなたなら10人は産めます」と太鼓判を押され、

恥じらいながら「そんなにたくさんは要りません。子どもは2人でいいです」

と応じた。 


 ところが、母親は「子どもをつくっちゃ駄目」と言い出す。

受け流そうとしても、来る日も来る日も「駄目」と繰り返す。

 根負けし、理由が分からないまま子作りしないことを約束させられた。


  兵庫県の進さんのもとへ嫁ぐと、今度は進さんが義弟に促されて病院へ。

女性看護師4人がいきなり両手足を押さえつけてズボンを下ろし、

医師がパイプカットをした。


 進さんは帰宅後、激痛に顔をしかめながら

「子どもをつくれなくなった。駄目になった」と打ち明けた。


 しばらくして不妊手術は義父が指示していたと分かった。

勝楽さんは「親同士が話をしたのだな」と察した。 


 平日はそれぞれ働き、休日になると人形作りに打ち込んだ。

進さんが拾ってきたウイスキーの空き瓶を芯に使い、

勝楽さんがレースや布を自在に縫い合わせて服に仕立てた。 


 2006年4月にホームに入居した際、50体の人形を運び入れ、

ロビーの机の上に並べた。


 進さんは、驚く大矢暹(すすむ)理事長(71)に

「僕の子どもだ」と告げた。


 持参した日本酒「剣菱」の瓶を机に勢いよく置いて

「一緒に飲もう。コップを持ってこい。話はそれからだ」。


  勝楽さんは、夫妻との出会いを振り返る大矢さんの手話に相づちを打ち、

当時を懐かしんでいるようだ。 


 「進さんが断種されたことをどう思いますか」と質問した。


 勝楽さんは小指をあごに当てる。

「もういい」「構わない」「仕方ない」と諦めを意味する手話だ。

何度理由を尋ねても、勝楽さんの小指はあごに向かう。

「子どもは2人ほしかったんですよね」と持ちかけても変わらなかった。


  過去を割り切れているのならば50体もの人形を作るはずがない。

それなのに、なぜ? 困惑していると、

見かねたように大矢さんが間に入った。


「『構わない』『仕方ない』には複雑な思いが全部入っています。そう言わざるを得ない背景に、骨の髄まで我慢を強いられた時代があった。私はそう解釈すべきだと思います」


 ■不条理の背後に、国がいた

 勝楽は、夫の進さんが断種された不条理に、

怒ることさえ諦めざるを得なかったのかもしれない。

 夫妻は当時、強制不妊手術を認めていた優生保護法を知っていたのだろうか。

手話通訳士が手話で問いかけるが、反応はない。


  今度は大矢理事長がうなった。

「勝楽さんには法律という概念がない。不妊手術のバックに優生保護法という法律があったことを説明できず、私たちも困っているのです」 


 人さし指と中指ではさみの形をつくり、おへその左右を同時に切る手話は

「断種」を意味し、男女を問わず高齢ろう者の間で使われてきた。


 昨年5月、全国手話研修センター日本手話研究所(京都市右京区)が、

「良い」「遺伝子」「守る」「法」を組み合わせた標準手話をつくるまで、

同法を意味する手話は存在しなかった。 


 このことは、耳の聞こえない被害者たちがこれまで

断種や中絶を強いる家族の背後に国がいた事実を

認識できずにいたことを象徴している。


「親を責めたくない」との理由で被害を言い出せない人もいる。 


「遺伝子を意味するらせん状の手の動きを見ても、勝楽さんは毛糸のひもがよれていると思うでしょう」 


 大矢さんは、京都府立聾(ろう)学校高等部で生徒会長を務めた。

2004年に兵庫県に移住し、聴覚障害者が安心して暮らせる

「淡路ふくろうの郷」建設に取り組むまで、京都で長年、ろうあ運動に携わった。 


 「いつもヒステリーを起こすのは手術をやったからだ」と

被害者を侮蔑(ぶべつ)したろう者がいる。


 鋭い視線で体験を大矢さんにだけ打ち明けた女性がいる。

交際相手が断種されたと知り、家族を相手取って

裁判を起こす寸前までいった人もいる。


「みんなの問題にできず、ずっと僕の心の澱(おり)になってたまっていた」  

 過去を変えることはできないと思っていた。


 だが、昨年の宮城県での国家賠償請求訴訟をきっかけに

優生保護法という法律があったことを知り、

「トンネルの中に一筋の光が見えた」。 


 「裁判で一人一人の尊厳が回復される道があると分かった。立ち上がったら過去を変えられる。京都でも一人、二人が立ち上がると次々に出てくると思う」


 気がつくと、勝楽さんはうつらうつらとしていた。

今年の夏で90歳を迎えるのだから無理もない。


 進さんが4年前に85歳で亡くなってからは、自身がバトンを受け継ぎ、

実名で証言を続けてきた。


 机の上に広げられたアルバムのモノクロ写真には、

日本三景の一つ、宮津市の天橋立で肩を寄せ合う夫妻の姿が写っていた。





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