ろう女性40年間の沈黙、秘密の避妊措置 優生保護の証言

京都新聞
平成31年3月5日


ラジオが流れる小さな喫茶店に女性が現れた。
他の客と席が離れていることが分かり、ほっとした表情を浮かべる。
「私が話したとは誰にも言わないで」。
絶対匿名が取材の条件。
しわで分かるから、と手の撮影も断られた。


40年前の中絶を証言したろうの70代女性によるメモ。子どもをつくる同世代や年上のろう夫婦は少なかったという


■本当は産みたい。でも従うしかなかった

 女性は70代。

幼いころから耳が聞こえず、発語もできない。

人生の多くは優生保護法(1948~96年)があった時代と重なる。


「(当時は)子供を作るろうあ夫婦は少なかった」

とペンを走らせた後、40年間胸に押し込めてきた思いを、手話で語り始めた。


  小中高とろう学校で学び、卒業後に今の夫と出会った。

夫もろう者。交際中、彼の母親から「早く早く」と促されて結婚した。

 夫は工場で働き、自身は和裁の内職や清掃の仕事で家計を支えた。


  79年、つわりに気づいた。当時30代。

子どもをつくると夫婦で決めていたのに、同居していた義母は

「お父さんが怒る」と顔をしかめた。

 義父は義母の再婚相手。

夫と血縁関係はない。


 義父は

「ろうの子どもが生まれ、(夫の弟が)結婚できなくなったらどうするんだ」

と詰め寄った。


 義母も迫った。

「産むのならば出て行きなさい。さあ、どうするの」。


 女性は、耳が聞こえなくても不幸だと感じたことはないのに、

呼び戻された実家では母親まで

「不幸な子どもが生まれたらかわいそう。堕(お)ろしなさい」

と畳みかけた。


  ろう学校で聴者の言うことに従うようにたたき込まれていた。

「やっぱり聞こえる人が優先。子どもをつくるなと言われたら、それは従うしかない。はい、と言うしかない」 


 本当は産みたい。食べ物も喉を通らない。

相談相手のいない孤独、苦悩、絶望…。


 1週間後、屋外をさまよっていると、小さな産婦人科が目にとまり、

吸い込まれるように戸を開けた。

 

「堕ろしたいです」  

筆談で伝えた。


 理由を尋ねる医師に

「私も主人も聞こえません。親が反対と言って譲りません。私はもうこれ以上、苦しみたくありません」

と説明した。

 医師はうなずき、その日のうちに手術は行われた。 


 帰宅後、義母に「手術をしたよ」と告げ、2階で体を休めた。

夜、仕事から戻った夫は

「なんで堕ろしたんだ。僕に相談してほしかった」

と激怒した。 


 中絶を選んだのは夫への心遣いだった。

障害があるが故に義父に疎外されて育った夫がふびんで、これ以上

つらい思いをさせたくなかったのに、かえって夫を怒らせてしまった。


 赤ちゃんに申し訳なく、夫妻はもう子どもをつくらないと約束した。  


 後日、母親から実家に呼び戻された。

産婦人科に連れて行かれ、今度は避妊のためのリングを子宮にはめさせられた。


 やはり、聞こえる人の指示には逆らえない。

「中絶の苦しみに比べたら、あきらめた方がいい」

と観念した。

 亡き母と2人だけの秘密。夫は今も知らない。

京都府立大で1971年に開かれた第1回全国ろうあ婦人集会報告書『太陽の輝きをいま』(全日本ろうあ連盟発行)より


■堕ろした「弱み」今も苦悶

 1971年11月、京都府立大(京都市左京区)で開催された

第1回全国ろうあ婦人集会で、ある聴覚障害者の夫妻にまつわる悲劇が報告された。


 妻が盲腸の手術を受けた際、親族の意向で不妊手術が勝手に行われ、

後日、事実を知った夫妻は苦悩し、片方が自殺に追い込まれた。


 翌年以降の集会でも、子どもを産めなくされた不条理を手話で語るろう者がいた。  

「私だけじゃない。みんな苦しかったんだ」  


中絶を強要された70代の女性は気持ちが軽くなった。

ただ自身は沈黙を破ることはなかった。  


「それはおかしいという運動は起こらなかった。お互いが個人の問題として処理していたのだと思う。権利とか、自分は自分だという運動が始まったのは私たちの下の世代から。子どもを堕(お)ろしたことは言えない。私の弱みですから」 


 優生保護法という法律があったことは昨年に初めて知った。

国家賠償請求訴訟を起こした兵庫県のろう者の夫妻は勇気があると思う。

 だからといって自分の経験を語る気にはなれない。


 全日本ろうあ連盟(東京都)の実態調査にも応じない。

「ろうの世界にも産んだら偉い、産まないのは駄目という価値観がある」。

「どうして産まなかったの」

と聞かれる光景を想像すると、下に見られているようでつらい。 


 開会中の通常国会で、優生保護法の被害者救済法案を与野党が提案する見通しだ。

おわびと補償の対象は不妊手術や放射線照射による

不妊化措置を受けさせられた人にとどまり、女性が経験した

中絶は対象外となる可能性がある。


 「もういいです、もういい。私は謝罪もお金も要らない。そんな法律があったなんて知らなかったけれど、最終的に堕ろしたのは私」


  胸をかきむしるように5本指をぐるぐると回して

苦悶(くもん)の表情を浮かべて、


「あの時は本当に苦しくて苦しくて。とにかく逃れたかった。私は弱かった。もう全てを忘れたい。つらい過去を早く忘れて、前向きに生きたいと思ってやってきたのです」。 


 1時間に及んだ証言。

女性は気持ちを落ち着かせて、冷めたコーヒーを飲み干した。


「私も高齢だから、匿名を条件に一度だけ話しておこうと決めた。ろうの世界は狭い。私の名前は連盟にも黙っておいてほしい」

と言って店を出た。 


 国や社会が問われるべき責任を、一人で背負い込んでこられたのだろう。

帰路につくきゃしゃな後ろ姿がより小さく見えた。



連載<隠れた刃 証言・優生保護法> 

国が「不良な子孫」と決めつけ、不妊手術や中絶を強いた法律があった。71年前、優生保護法は民主的手続きを経て成立、23年前に改正され強制不妊の規定がなくなっても、苦しみ、もがき、沈黙するしかない人たちが、今もいる。「優生」の意識は、私たちの心の中に「刃(やいば)」のように潜んでいるのではないか。教訓を未来への道しるべとするために、時代の証言を探した。




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