毎日新聞 2019年1月12日
阪神大震災で傷ついた神戸の街が再生する姿を、聴覚障害のある
山村賢二さん(86)=神戸市灘区=が山から見守り続けている。
19歳から始めた六甲山系・再度山(ふたたびさん)(標高470メートル)への
登山は2万3000回を超え、時には展望台から街を見渡す。
六甲山系の展望台から神戸の街の再生を見守ってきた山村賢二さん
=神戸市中央区で2019年1月6日、山田尚弘撮影
耳が不自由で震災直後は孤独も味わった。
戦災や水害、震災を乗り越えた街に励まされ、山村さんは山へ向かう。
山村さんは5歳のころ、はしかで中途失聴に。
ろうあ学校に通った後で就いた縫製の仕事は座る時間が長く、
健康のため再度山に登り始めた。
中腹の燈籠(とうろう)茶屋(標高約150メートル)までの景色にひかれ、
愛好家らの団体に参加。
登山記録を付けるのが日課となった。
「聞こえる人の記録を超え、ろう者の自分の存在を分かってほしい」との意地もあった。
美しい自然は突然牙をむく。
1961年6月に神戸で約30人が死亡した集中豪雨の後は、倒木が
道をふさいで橋も壊れ、街は土砂に埋もれた。
95年1月17日未明。いつも午前4時半に起床するが、たまたま1時間遅れた。
神戸市東灘区の自宅で揺れに襲われた。ふと戦時中の母の教えが頭をよぎった。
「あなたは聞こえないから空襲の時は一人にならず家族といなさい」。
2階で寝ていた妻妙子さん(84)の元へと急ぐ。
ガラスの破片が足の裏に突き刺さる。
2人とも聴覚障害があり、暗くて手話が使えず妙子さんの手のひらに
「ガラス」と書いて身の危険を伝えた。
自宅は全壊。避難所の学校では被災者が頼ったラジオも聞こえない。
校内放送も届かず配給の列に並び遅れ、十分な食事をもらえないこともあった。
ボランティアが来るまで手話通訳者がほとんどおらず、不安で孤独だった。
震災2日後、避難所近くの一王山(標高約150メートル)に登り始めた。
「足は痛んだが、つらい気持ちを忘れられた」。
夏には仲間を求めてまた再度山に登るようになった。
「空襲後のよう。ビルは倒壊したまま。さみしくてつらかった」。
展望台からの街は一変し傷痕は想像を超えていた。
それでも、登る度に街は息を吹き返していった。
倒壊した教会のレンガは積み上がり、ビルも空へと伸びていく。
2006年には神戸空港が開港、飛行機も発着するようになり、
見ていて頼もしかった。
「震災前よりも街が大きくなった。
元気な神戸であり続けてほしい。私も負けない」
【待鳥航志】
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