佐賀新聞LIVE 11/4
優生社会「沈黙」強いる
1974年秋、佐賀県内。当時35歳の男性(79)は
父親の背中を追って自転車をこいでいた。行き先も用件も伝えられず、
後ろからついて来るよう命じられた。
到着したのは産婦人科医院だった。「なぜ男の自分が」と不思議に思ったが、
意見せず黙って従った。麻酔から目覚めると下腹部に手術痕があった。
旧優生保護法(1948~96年)下で、障害者らに不妊手術が繰り返された。
佐賀県聴覚障害者協会の調査で女性3人、男性1人が当事者として判明した。
女性(80)は義姉から「生理が重くて大変だろう。楽になる」と伝えられ、
病院に連れて行かれた。手術後15日ほど入院し、歩けないほどの激痛を感じた。
3年後に子どもができないことを母親に相談し、初めて不妊手術と知った。
「悪質な遺伝性疾患の素質を有している者の増加を防いで、国民全部が健全者であるように、
即ち国民全部の素質の向上を図って行く」―。
同意なく不妊手術を受けた男性と、取材に同席した妻の手。
手話が蔑視された当時、聴覚障害者は「沈黙」が強いられた
旧法が施行された48年に厚生技官が書いた「優生保護法と妊娠中絶」。
戦後の人口増の中で、国は国民の「量」と「質」の管理を目指し、命の価値に優劣をつけた。
全日本ろうあ連盟によると、全国の聴覚障害者109人が強制不妊や
人工妊娠中絶を施された可能性が高い。
聴覚に限らず、知的障害者の被害も数多く確認されており、不妊手術を施された
障害者らは全国で約2万5千人とされる。
県内の当事者4人には、手術を受けた状況に共通点がある。
事前の説明や、同意を求められることもなく、事後に詳しい説明も受けていない。
旧法の存在も知らなかった。
「手話は理解されず、『健常者の言うことを黙って聞け』と育てられた。
人として対等ではなく、健常者とけんかすることもできなかった」。
協会の中村稔理事長(59)は、4人の気持ちを補うように当時の社会状況を説明する。
不妊手術を受けたことを知った時、4人は怒りや抗議を示さなかったのか。
全員、同じ手話で答えた。胸の前に立てた左手の親指に右手のひらを当て、
そのまま上から押し下げる。「我慢」「辛抱」を表す手話だった。
コミュニケーション手段の手話が否定され、聴覚障害者は我慢と「沈黙」を強いられた。
「何か意見を言うことは許されなかった。働いて、自分で稼いで生活しているのに、
一人前扱いされなかった」。
優生手術の被害を受けた男性は、障害を理由に社会の一員として
認められなかった過去を振り返る。
優生思想が陰に陽に映し出された社会の中で、当事者たちは強いられた
「沈黙」と「我慢」を社会の人権意識や制度を改善する運動のエネルギーとし、
少しずつ社会の価値観や手話に対する偏見を変え、理解者を増やしてきた。
その地道な歩みが、県手話言語条例という形でようやく結実した。
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