佐賀新聞LIVE 11/3
健常者に近づく努力課され
佐賀県議会で手話言語条例が可決された9月25日。佐賀市の県聴覚障害者協会で
ささやかな祝賀会が開かれた。
集まった約70人の会員は、両手をひらひらと動かす「拍手」の手話で
何度も喜びを分かち合った。中には、目に涙を浮かべる人の姿もあった。
傍聴席で手話言語条例の可決の瞬間を見守る聴覚障害者たち。
手話通訳者が審議の様子を伝えた=9月25日、佐賀県議会
議会傍聴席で可決の瞬間を見守った井上良樹さん(81)は
「手話が禁止され、差別された時代から考えると大きな前進。
いつか理解してほしいとずっと思っていた」。
興奮と感動が入り交じった様子で、目を潤ませながら手話で語った。
ろう者の「母語」とも言われる手話は、不当な扱いを受けた長い歴史がある。
1933年、鳩山一郎文部大臣がろう学校での指導を「口話法」で取り組むよう訓示し、
全国で手話の指導が禁じられた。
口話法は、音声言語を口の動きと形で理解し、発声を訓練する。
しかし、例えば「タマゴ」と「タバコ」は口の動きで判別できない。
一定以上の聴力がある生徒には効果を生む一方、聞こえない生徒には厳しい教育法だった。
県聴覚障害者協会の中村稔理事長(59)も口話法時代に学んだ1人。
「授業中、手が動いただけでチョークが飛んできた」。
当時の教諭たちにはよくこう言われた。
「社会に出ると、手話は通用しない」。手話ができる教員も少なかった。
ろう学校の卒業生で同校勤務歴34年の福田誠さん(59)は
「口の動きである程度の理解はできるようになったが、それでも3割ぐらい。
手話を使わない授業は本当に難しかった」と振り返る。
口話法の成果を一部認めつつ、こう思う。
「できるならもう1回、手話が認められた今の学校に入り直したい」
1994年の学校創立70周年記念誌。
「障害者が一方的に努力を求められ、健常者に一歩でも近づくというものだった」。
口話から手話への転換を模索する当時の学校関係者が、時代の空気をそう書いていた。
手話についてはこう記す。「以前よりコミュニケーションが広がり、
豊かになったことは否定できない」。生徒の成長を望みながら、口話と手話で揺れ動いた
現場教員の苦悩がにじむ。
福田さんは今でも、手話を使っていると好奇の目で見られる経験をする。
「手話は私の母語。手話がないと生きるのはつらく、ひとりぼっちになる」
ろう学校で手話が使われだしたのは、93~95年ごろ。「手まね」と蔑視された手話は、
寄宿舎で先輩から後輩へと代々受け継けがれていた。
鳩山訓示から85年。県条例可決の瞬間、聴覚障害者たちが浮かべた涙の理由はここにある。
障害者の強制不妊が社会問題化している旧優生保護法。
母体保護法に改定されたのは1996年で、ろう学校での手話の解禁時期と重なる。
蔑視の対象とされてきたその源流をたどると、優生思想を背景にした排除の理論が見えてくる。
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