洲本 終戦後73年 被爆者2人が核の恐怖語る


 広島、長崎に原子爆弾が落とされてから、今年で73年。

兵庫県洲本市中川原町の中川原高齢者・障害者地域ふれあいセンターで

12日、2人の被爆者が核の恐怖について語った。


 ろうあ者で、長崎から洲本市の特別養護老人ホーム「淡路ふくろうの郷」(同市中川原町)

に移り住んできた山崎栄子さんと、青木透さん=同市物部。ともに91歳。


 「核を許してはいけない。戦争は決して起こしてはならない」-。

繰り返し訴えた。(西井由比子)  


 淡路教職員組合などでつくる実行委員会主催の「平和のための淡路戦争展」

に語り部として招かれ講演した。同展は今年で24回目。


  山崎さんは18歳のとき、長崎の爆心地から6キロの距離で被爆した。

バラックの家を建てる両親の手伝いをしていたとき、突然目の前が明るくなり、

オレンジ色の光が広がったかと思うと、ものすごい勢いで床にたたきつけられたという。  


 生まれたときから耳が聞こえず、話せない山崎さん。

姉を含めたくさんの人がひどい姿になり、亡くなっていくのを見たが、

音のない世界で何も知ることができないまま過ごしたという。


  講演では、キノコ雲の写真を指さし、核の恐怖を全身で表現。

「二度と、こういうことがあってはならない。若い人にお願いしたい」と手話で訴えた。

核の恐怖について全身で表現する山崎栄子さん(左)
=中川原高齢者・障害者地域ふれあいセンター


  2003年、58回目の原爆の日に長崎平和公園でろうあ被爆者として

初めて「平和への誓い」に臨むなど長崎を拠点に語り継ぐ活動に力を入れてきたが、

認知症の症状が出てきたため16年、ふくろうの郷へ。

ろうあ者への配慮のある特養施設が九州にないためで「長崎に帰りたい」と話した。



  青木さんは戦時徴用で広島県呉市にいたとき、キノコ雲を見た。

爆風と爆音の後、雲がもくもくと上がったのを「きれいだなあ」と言って兵隊と眺めた。

雲はピンクに赤、緑、紫の光を放ち、花火のように美しかったという。 

青木透さん=中川原高齢者・障害者地域ふれあいセンター


 その後、トラックに乗せられ、広島駅とその近くの練兵場との間で、

被爆した兵隊の救援活動に携わった。


 おびただしい数の死を目の当たりにしながらも「恐ろしい」「かわいそう」

などという人間的な感情はわき上がってこなかったといい

「そういう訓練をされていた」「原爆だとは聞かされなかった」

「戦争、原爆を恐ろしいと思うようになったのは、30歳を過ぎてから」と

当時の異様な状況を語った。

戦争にまつわる品々の展示もあった=中川原高齢者・障害者地域ふれあいセンター


  講演には約70人が耳を傾けた。親に連れられてきた子どもの姿もあり、

洲本市立加茂小4年の男児2人(9)はまだ戦争について

よく分からないながらもじっと聞き入り「キノコ雲の話が怖かった」と話していた。



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