2016/11/11 2枚目の名刺webマガジン
(前編)ごく普通の夫婦がろう児のための学校を設立。
社会の変化に挑むための広報戦略とは?
(後編)ごく普通の夫婦がろう児のための学校を設立。
社会の変化に挑むための広報戦略とは?
お子さんの耳が聞こえないと判明したことをきっかけに、自分たちができることとして
ろうの子供たちが学ぶ環境の矛盾を取り去り、新たに整え直そうと
動き始めた玉田雅己さん、玉田さとみさん。
それぞれに役割分担しながら駆け回り
「NPO法人バイリンガル・バイカルチュラルろう教育センター(BBED)」を設立。
普通の人の3倍も4倍も濃厚な日々を送るお二人に、学校設立までのお話と
それにまつわる広報の重要性について
二枚目の名刺WEBマガジンの安東と橋本が伺いました。
自分の子供とどのように意思疎通をはかればいいのか?
現実へのショックが学校設立するきっかけに
—まず、BBED立ち上げの経緯からお話いただけますでしょうか。
雅己さん(=以下、敬称省略):
私たちの次男が2歳になったときに耳が聞こえないということがわかったことで
日本におけるろう教育の現実を目の当たりにしたのが、そもそものきっかけです。
1998年のことですが、その当時、ろう学校では手話での教育がなされていなかったのです。
さとみさん(=以下、敬称省略):
日本では、昭和8年からろう学校での手話が禁止されて
その状況がずっと引き継がれてきたのです。
聴覚口話による教育、つまり声を出すこと、聞き取ることが第一とされてきました。
雅己:
じゃあ次男とどうやってコミュニケーションをとればいいのだろうかと
とてもショックでしたね。口話教育というのは、手話を教えずに
聞こえる人に少しでも近づけようとする教育です。
話せるようにするための訓練なんです。それは違うだろうと思いました。
聞こえない子は自分の声を自分の耳で確認できないのだから
正確な発音ができるわけがありません。
そういった点に矛盾を感じ、次男を手話で育てたいと考えましたが
日本には手話での教育を採用している学校はありませんでした。
そういった経緯があり、ろうの青年が
“自分たちが受けてきた口話教育を子供たちに経験させたくない”
という想いで運営していたフリースクール「龍の子学園」に次男を通わせながら
公立ろう学校に手話で学べる環境をつくる活動を始めました。
フリースクールでは経営が不安定ですから
まずは基盤をしっかりさせるためにNPO法人格を取得しました。
それからしばらくして、小泉内閣が進めた規制緩和により
NPOでも学校を作ることができる「教育特区」の制定に向けた動きが始まりました。
—社会的な状況もお二人の活動の後押しになったのですね。
雅己:
はい。とはいえ、もちろんまだ誰もやっていなかったことですから
すぐに実現できたわけではありません。
ただ、(さとみさんとは)もしかしたらできるんじゃないか
できたらいいねという話はいつもしていました。
それで経営の安定化と、学校を設立するにあたっても
スムーズになるだろうということでまずは法人格を取得し
「NPO法人バイリンガル・バイカルチュラルろう教育センター教育部 フリースクール龍の子学園」
と名を変えました。
さとみ:
私たちが動き始めたのが2000年で、NPO法人になったのが2003年
2005年に特区提案が通り、2008年にやっと明晴学園を設立できたのです。
2003年くらいから様々な場所で「ろうの子供たちが日本でどのような状況にあるか」
ということを知ってもらうための活動をしてきましたが
その流れで特区についての情報を得ることができました。
そして「NPOで学校が作れるか」というテーマの勉強会に参加したことで
初めて教育関係のNPOの方々と出会い
仲間の輪を広げると同時に、日本の教育には色々な問題があることを知りました。
A4両面のコピーと“1分プレゼン”から始まった
たった二人の広報活動
—ろうの子供たちを取り巻く状況について広く知ってもらうために
具体的にどのようなことをされてきのですか?
雅己:
最初にしたことは、読売新聞に掲載されていた「こども未来財団」の
エッセー募集に応募することです。
さとみ:
すべてはそこから始まったのかもしれません。広報というよりも
ろう学校では手話を使っていないということ、手話で育てた方がいいのだという考え方を
とにかく広めなくてはならないと必死だったのです。
我が家では読売新聞を購読していますが、そのきっかけも手話なんです。
次男が近くのコンビニに出かけたときに、ある男性を連れて帰ってきて。
聞けば「この人は手話ができるんだよ」と。
その方は聞こえるけれど、ご両親がろう者だということでした。
たまたま彼が新聞の勧誘の仕事をされていたので
読売新聞を購読することになったのです(笑)。
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